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鈴風の物語 その2 女学生遊女 信夫(3/3)

last update Last Updated: 2025-10-21 18:00:43

 ずいぶん長いこと寝てしまったらしい。

目を覚ますとあたしは一人でいて、日は傾きかけ秋の風が枕を涼しく撫でていた。

昨晩の揺蕩うような逢瀬に胸の痛みを感じながら布団を抜け出し支度部屋へ向かう。

お勤めまでまだ少しあったけれど、もしや信夫にあえやしないかと思ったからだ。

楼の廊下をゆっくり渡って行くと目当てとは違う人と出会った。

進駐軍のような黒サングラスをして辻沢を睥睨する眼力を隠し、紺綴が似合う恰幅良い大人。

店主の伊礼氏だ。

楼主に請われて店主に収まると、あれよあれよと全国に知らぬもののない名妓楼にした男が、

「風鈴や。今日から小座敷にあがりなさい」

 と言った。それは、妓楼の店主が決定事項を伝える時の威圧感がなかった。

むしろ予め決められていたことを促すような自然さがあった。

それで一瞬だけ了承しかけたけれどすぐに思い直した。

席順はあたしだけのことではないからだ。

「それは出来かねます。小座敷には今、糸子姉さんがおられますし、あたしは5番手になったばかりです。あたしが居上がれば見世はまとまらなくなるでしょう」

 そう答えたあたしを伊礼氏はまるで手水鉢の雨蛙がしゃべったのを見たかのように、サングラスを下げて凝視した。

暫時そのままでいたけれど再びサングラスをかけ直すとあたしの言葉など聞かなかったかのように、

「では、後ほど見世で」

 と廊下を去って行ってしまった。

 で? あたしはどうすればいいの?

 廊下のはじの新造部屋をそれとなく覗き、信夫の姿をさがす。

ほんとうなら、昨夜あんな痴態を見られた当人に顔など見せられないはずが、魂を射すくめる信夫の金色の瞳を見たくてしかたないのだ。

けれど見当たらない。ザワザワする気持ちのままそこを素通りして支度部屋にむかう。

階を上がる前に見世を覗いたら、まだ早いから誰もいないと思ったのに、空色の制服に身を包んだ信夫だけが小座敷前のテーブル席に座って格子の向こう

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